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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その4 --> 問題紙


罪人を招くために来られたイエス様

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マルコ2:1-17
要 節:マルコ2:17「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」

WHO(世界保健機関)に、「健康の定義」がなされているのをご存知ですか。"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."とあります。和訳すると、肉体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではないということになります。これに最近、改正案が検討中ですが、往来の定義に「スピリチュアル(spiritual)」な状態が付け加えられました。

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity." これを和訳すると、「健康とは、完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉のDynamicな状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」となります。WHO会議での過去の議論などから、「健康」の確保において生きている意味・生きがいなどの追求が重要との立場から提起されたものと理解されます。この基準を満たしている本当に健康な人、丈夫な人はどのくらいいるのでしょうか。

今日の本文でイエス様は言われます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」この言葉は、体も心も弱い私達に希望を与えます。今日の御言葉を通して、イエス様がこの世に来られた目的を悟り、真の健康な人生、正しい人生を送る秘訣を学ぶことができますように祈ります。

Ⅰ.信仰をご覧になったイエス様(1-12)

1、2節をご覧ください。イエス様はらい病人をきよめてから数日経って、再びカペナウムに来られました。その時、イエス様が家におられることが知れ渡ると、多くの人が集まりました。そのため、戸口のところまですきまもないほどになりました。イエス様の噂を聞いて、ある人は病気を直してもらうために、ある人は何か食べ物を求めて、ある人は心の悩みを持ってカウンセリングを受けに来たかもしれません。イエス様は彼らにまず御言葉を話しておられました。

3節をご覧ください。その時、ひとりの中風の人が4人にかつがれて、みもとにつれて来られました。中風とは、医学用語で言うと、卒中の一種で、脳や脊髄の炎症を起こし、腕や脚が麻痺してしまう病気です。彼らは、床に友人の中風の人をのせて、イエス様のおられた家まで連れてまいりました。ところが、家には人がいっぱいで、イエス様の近くにはとてもいける状態ではありませんでした。せっかくここまで来たのに思わぬ障害物にぶつかってしまいました。しかし彼らはあきらめませんでした。彼らはイエス様のおられる辺りの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしました。当時のパレスチナの家は、横梁(よこはり)の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編んで、それを粘土で塗り固めた平屋根の家が主なものであったといわれています。そして、その屋根の上には外から階段で昇れるようになっていたそうです。そういうわけで、屋根をはがすのはそう難しいことではなかったようです。しかし、いくら簡単とはいえ、人の家の屋根をはがすという行動は、あまりにも常識がない手段です。私たちの常識からすると、ちょっとまゆを潜めたくなるような行動ですね。人に迷惑をかけてまで、イエス様のところにいくということはいかがなものか、そういう気がします。

しかし、5節をご覧ください。イエス様は、そういう行動に出た彼らの信仰を評価されました。イエス様のまなざしは、どうやら私たちの常識とは少々違うようです。イエス様が病気を癒す動機に、大きく三つのパターンがあります。ひとつは今日の本文の例のように、病人の周囲の人たちの願いによるものです。それから、病人本人の願いによるもの。そして、イエス様ご自身から積極的に癒されるものです。そのいずれにしても、大切なのは、癒される事を強く「求め」ているという事です。

私達は、最初は信仰によって強く求めてチャレンジしますが、失敗が重なるとあきらめたい心が生じます。時間が経つと否定的な考えも生じます。しかし、この時こそ祈りの体験、信仰の体験ができる良い機会です。障害にぶつかった時、あきらめず祈り続けると、主がその障害を克服できる知恵をくださいます。信仰とは障害物の前であきらめず、挑戦して克服することです。そういう意味で、「信仰」という単語は名詞ではなく動詞と言っても良いかもしれません。それも受動態動詞ではなく能動態動詞と言えます。信仰は目に見えません。しかし信仰がある人と信仰がない人の考えや行動は全然違います。信仰がない人はその考えが否定的であり、消極的であり、運命的です。しかし信仰がある人はその考えが肯定的であり、積極的であり、挑戦的です。信仰がない人は障害にぶつかるとすぐ落胆し、絶望し、つまずいてしまいます。しかし信仰がある人は同じく落胆し、絶望しつまずくことがあっても再び起き上がります。

さて、イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人になんと言われましたか。5節をご覧ください。「子よ。あなたの罪は赦されました。」イエス様は中風の人に「子よ」「My son」と呼ばれ、彼を息子のように暖かく受け入れてくださいました。中風の人は愛しにくい人です。しかし彼が信仰によって出て来た時、イエス様は彼を神様の愛する子供として暖かく受け入れてくださいました。イエス様は中風の人に驚くべきことを宣言されました。「あなたの罪は赦されました。」中風の人がイエス様のところに連れて来られたのは病気を癒してもらうためでした。ですから、当然人々はイエス様が中風の人に「子よ。あなたの病気は癒されました。」と言われると思っていました。人々は彼の根本問題は中風の病気だと思いました。それが彼の人生を不幸にした原因だと思いました。ですから、その病気さえ解決できればきっと幸せになれると思いました。しかしイエス様は彼の病気よりもっと深刻であり、根本的な問題は罪であると考えられました。もし、中風の人が体の病気だけ癒されると、その後彼の人生はどう変わるかわかりません。溢れる力を抑えきれず、お酒を飲み、今まで自分をいじめていた人達を殴るかも知れません。また、今までは体を動かすことができなかったがために頭の中で妄想していた罪を具体的に行動に移すかも知れません。

イエス様は体の病気の解決より、彼の内面にある罪の問題の解決を優先しなければならないと思われました。彼は中風の病気のためにいつも横になっているので、何の罪もないように思えます。中風の人になったことだけでも悲しいことなのに罪人として扱うイエス様は冷たい人に見えます。しかし、イエス様は彼を不幸にする根本的な原因は、体の病気より、罪による内面的なものが大きいと思われました。それで「あなたの罪は赦されました。」と言われ、まず第一に罪の問題を解決してくださったのです。

私達は、今現在抱えている問題が早く解決されることを望みます。目の前にある環境や状況が変わることを願います。中風の病気が癒されることを強く求めます。それだけが解決されれば幸せになると思います。もちろん私達は現実の問題のために祈るべきです。神様に求めるべきです。しかし、その前に罪を赦していただく必要があります。心の奥底にある不信仰を悔い改めるべきです。神様との関係性を回復する必要があります。環境が変わっても相変わらず神様を愛し、どんな状況の中でも神様を信頼することができるように祈る必要があります。その時、私達は神様の祝福をいただき、真の幸せな人生を送ることができます。

カナダの『アシュリー・へギさん』をご存知でしょうか?アシュリーは生後9ヶ月の時に800万人に1人の割合で生まれる『プロジェリア(早期老化症)』と言う難病の診断を受けました。普通の人の10倍のスピードで体が老化する病気です。患者の平均寿命は13歳で、治療法はまだ見つかっていません。彼女は1991年カナダ生まれ、生後3カ月あたりから、皮膚が硬くなり始め、髪の毛が抜け出し、遺伝子の異常により老化が速く進む病気『プロジェリア』であることが判明されました。『1日が10日』『1年が10年』そんな彼女が言った言葉です。彼女は先週の21日、17歳の短い人生を終えて神様に召されました。しかし、彼女が残したメッセージは大きいものですので、いくつか彼女の話した言葉を紹介したいと思います。

 「私はアシュリー。プロジェリアじゃなけらればいいのに、なんて思わないわ。わたしは、わたしという人間であることが幸せだし、神様がわたしをこうお創りになったのには、きっと理由があるはずだもの。もしかしたら神様は、『わたしはプロジェリアだけど、こうして生きている』ということを人に見せなさいって、その機会をお与えになったのかもしれないって思うの。この病気をとおして、人を助けなさいということかもしれないって思うの。わたしのことをかわいそうだって言う人がいるわ。でも、その人たちはわたしじゃない。だから、そう言うんだと思う。だってわたし、自分のこと、かわいそうだって、ちっとも思わないもの。『自分のこと』ハッピーでいられる自分が好き。わたしはハッピーに生きたい。ほかの人たちを勇気づけるように生きたい。生きるチャンスを与えられているのだもの。わたしは自分の定められた時間がくるまで、すこやかに生きていきたいと思っているわ。」 最後に彼女は毎日このような祈りをしていました。「私の人生に感謝します。家族の健康と安全に感謝します。今日も1日無事に過ごせて感謝します。そしていい休息がもてますように。家族が無事にいられますように。ひどい頭痛や胸の痛みが起りませんように。関節炎が痛みませんように。明日も学校でいい1日が過ごせますように。明日の朝、リフレッシュした気持ちで起られますようにー。」

彼女は難病から解放されることなく17年の短い人生を終えました。しかし誰も彼女の人生が不幸だとは思っていません。いや彼女の人生はこの世の中で一番幸せだったかもしれません。実際、彼女の話が世界中に報道されてから数多くの人々が勇気付けられ、生きる意味が与えられ、助けられました。彼女は髪の毛もなく骸骨のような外面をしていましたが、世界で最も美しい人生を送り、世界中に神様の栄光を表しました。

私は、アシュリーさんの話を聞きながら悔い改めの心でいっぱいになりました。自分がアシュリーさんと同じ病気だとすると、これから長くて4-5年しか生きられません。1日が10日、1年が10年となることを考えると、無駄に時間を浪費していた自分の姿が恥ずかしくなりました。私はこの1ヶ月間中風の人のように無気力な生活をしていました。自分の状況についてストレスを感じ、体力的にも急に弱くなっているように感じていました。私の姿は、まるで寝床に寝かせられた中風の人のようでした。早く環境が変わることだけを望んでいました。このような私に主は、環境の改善の前に、罪を悔い改め神様との関係を回復するのがもっと大事であることを教えてくださいました。私は自分の置かれた状況について、神様に感謝が足りませんでした。不平不満の心がありました。世の中の人のように人間的な欲望に満ちていました。信仰も良いけれどもやはり金がないと色んな面で困ると思うようになり、信仰の純粋さを失っていました。神様は私に一番必要なのは、どんな状況の中でも神様の愛を信頼し、感謝することであることを教えてくださいました。アシュリーさんの話は、今後私がどういう姿勢で生きるべきかについて良い教訓となりました。私がこの時間、神様の御前で感謝の足りなさ、無気力の罪を悔い改めます。そして、神様の愛を信じて祈り続けることを決断します。寝床から起き上がって仕事にも主の御業にも忠実したいと思います。1日1日を大切に使い、豊かな実を結び、主の栄光を表すことができますように祈ります。

さて、イエス様はご自分に罪を赦す権威があることを示すために、中風の人に言われました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」すると彼にどんな驚くべきことが起こりましたか。12a節をご覧ください。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行きました。目に見えない罪の赦しのみわざが、起きて歩くことを通して現われました。中風の人が罪の赦しの恵みを受けて起きて歩くようになった時、人々はすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神様をあがめました。この時間、私達も信仰によってイエス様に出会い、罪が赦され、明るくて力ある人生を過ごすことができるように祈ります。「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われる主の罪の赦しの御言葉を聞いて生き生きとした信仰生活を送ることができるように祈ります。

Ⅱ.罪人を招くために来られたイエス様 (13-17)

13節をご覧下さい。イエス様は中風の人の罪を赦してから狭い家から出て涼しい湖のほとりに行かれました。すると群衆がみな、みもとにやって来ました。イエス様はそこで彼らのために神の国の福音を教えられました。

14節をご覧下さい。イエス様は、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になりました。群衆はみな、イエス様のみもとに出て行ったにもかかわらず、レビはその仲間に入ることができず、ひとりで寂しく収税所に残っていました。レビは取税人でした。当時ユダヤはローマの植民地でしたが、取税人はローマ帝国の税金を徴収する人でした。彼らは実際に納めるべきものより多くのものを徴収し横領したために人々から憎まれていました。ユダヤ人社会の仲間入りを許されず、遊女と同じレベルに罪人扱いされました。

それではなぜレビはみなに嫌われる取税人の道を歩んだでしょうか。彼の名前は「レビ」です。「レビ」とは「結ぶ」という意味のヘブライ語から派生しています。神様と人間を結ぶという意味で、旧約聖書に登場するヤコブの息子の名前に使われ、後にその子孫はレビ族となり、祭司役を務めることになりました。アルパヨさんは、裕福ではありませんでしたが、生まれた息子が神様をよく信じ、神様の栄光のために生きるようにという願いを込めて「レビ」という名前をつけたでしょう。ところが、彼は成長しながら神様に対する信仰が揺れ始めました。イスラエルはローマの植民地となっており、生活は苦しくて神様の存在について疑いが生じました。そして「現実は現実。神より金。」と思い、金を儲ける決心をしました。彼は金持ちになるなら何でもやると思い、みなに嫌われている取税人になりました。

彼はユダヤ人としてのアイデンティティも、良心も捨てました。彼は多くのものを手に入れたと思いましたが、実はもっと多くのものを失っていました。同胞を失い、友人を失い、良心を失い、自分の本来の人生の意味や目的を失いました。彼は罪によって孤独な人生を送っていました。彼はやっと一人ぼっちになっている自分に気づきましたが、もう自分の力では現在の生活から逃れることができなくなりました。彼は群衆がイエス様の御言葉を聞くために湖のほとりに行く時にも孤独と空しさと罪悪感で苦しみながら収税所に座っていました。彼には誰かの助けが必要でした。  イエス様はこのようなレビをご覧になりました。レビのうわべではなく、彼の心をご覧になりました。そして、イエス様は彼を哀れんでくださいました。人々はレビを見ると、指を指し罪に定めましたが、イエス様は彼を深く哀れみ、彼に関心を示されたのです。そして、彼に言われました。「わたしについて来なさい。」このイエス様の御言葉は何を意味しているのでしょうか。

第一に、この御言葉は彼が今までどんな罪を犯したとしても、イエス様について来るなら赦してくださるという約束の御言葉です。レビは今まで利己心のゆえに多くの人々を苦しめました。ところが、イエス様はこのような彼を罪に定められませんでした。第二に、新しい人生の方向となる御言葉です。彼は今までお金について来ました。同胞から何と言われてもまるで鬼のように税金を取り立てました。そのような彼がイエス様の弟子になるとはふさわしく思えません。お金ばかり考えている彼がどうやって、人のために、神様のために自分を犠牲にするイエス様の弟子になることができるのでしょうか。しかし、イエス様はこのような彼からも大きな可能性を見出し、新しい人生の方向を与えてくださいました。「Fellow money」から「Fellow Jesus」へ人生の方向を変えるようにしてくださいました。イエス様のご希望通り、彼は後にマタイ福音書の著者である聖マタイになりました。

さて、レビの反応はどうでしたか。彼は立ち上がってイエス様に従いました。これは、彼にとっては人生で最大の決断でした。レビが立ち上がってイエス様に従った時、彼の内面に驚くべき変化が起こりました。彼には今まで味わったことのない喜びと平安が満ち溢れました。15節をご覧ください。「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大勢、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである。」レビは心から湧いて来る喜びのゆえに宴会を開きました。そして、その宴会に同僚の取税人や罪人たちを大勢招きました。今まではお金がもったいないから宴会を開いたことがありませんでした。しかし、レビはイエス様に出会った喜びを仲間の取税人や知り合いの人達と分かち合いたいと思いました。  ところが、宴会が盛り上がっていた時、パリサイ派の律法学者たちは、イエス様が罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエス様の弟子たちにこう言いました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

それではイエス様はなぜ罪人たちとともにおられますか。17節を御一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」この御言葉から私達はイエス様について大切な真理を学ぶことができます。

第一に、イエス様は人々を病んでいる病人としてご覧になりました。

人々は誰でも病んでいる人より健康な人と一緒になりたいと思います。最近、介護の大変さが知られています。愛する家族でさえ看病が長くなると疲れてくるものです。保険会社も病人は歓迎されません。思い病気であることが判明されると、自分のお金を払って加入しようとしても受け付けてくれません。病気になると本当に悲しいです。しかし、イエス様は病んでいる人を癒す医者としてこの世に来られました。体の病気だけではなく心の病をも癒してくださいます。丈夫な人には医者は要りません。しかし、世の中には完全に健康な人は一人もいません。イエス様はこのような私達を助けるために医者として来られました。イエス様は私達を癒してくださる方です。

第二に、イエス様は罪人を招くために来られました。

イエス様は中風の人を招かれました。そして彼の罪をお赦しになり、自立的な人生を送るように助けてくださいました。イエス様は利己心によって病んでいるレビを招かれ、弟子にしてくださいました。もしイエス様が正しい人を招くために来られたなら、中風の人やレビのような人を招くはずがありません。律法学者や宗教指導者など敬虔な生活をしていた人達はいくらでもいました。しかし、イエス様は罪人を招くために来られました。ルカの福音書には、「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とあります。

結論的に、このイエス様の中には誰でも希望を持つことができます。私のような罪人もありのまま受け入れてくださいます。中風のような無力な私でも、孤独な私でも、人々から無視されている私でも、イエス様は私のすべての罪を赦し、子供として受け入れてくださいます。罪人を招くために来られたイエス様を賛美します。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23