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2009年クリスマス聖書勉強、その2 --> 問題紙

救いの角・日の出であるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書、1:58-80
要 節:ルカの福音書、1:78-79「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

Merry Christmas !! 先週からクリスマスの勉強をしていますが、今日は、その深い意味をまた探ってみたいと思います。特に、今日はイエスキリストの予言者、バプテスマのヨハネの誕生から伺われる、イエスキリストについて、その父「ザカリヤ」の証言から、深い意味を探ってみたいと思います。

I.彼の名はヨハネ(57-66)

58節の御言葉をご覧ください。「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」とあります。エリサベツはユダヤのヘロデの時代の祭司、ザカリヤの妻でした。二人は主の戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた、その時代の正しい人たちの代表格でした。しかし、彼らには子どもがいませんでした。彼らはこれが人生の祈りの課題でした。もう年を取っていた彼らでしたが、いつも、祈るときにはまず、子どもを与えてくださるように、と祈りました。彼らの祈りは誠実そのものでした。

ある日、ザカリヤが祭司職の習慣によって、くじを 引いたところ,主の神殿にはいって香をたくことになりました。そのとき、ザカリヤは神の声を授かりました。「ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」ザカリヤはこの話があまりにも信じられないものでしたので、「信じられないお話です。家内はもう年を取っております。」と答えました。御使いガブリエルがお伝えした喜びの知らせを受け入れることができなかったのです。ガブリエルはザカリヤの口を封じ、しばらくものがいえない訓練を与えられました。

さて、58節の言葉が続きますが、月が満ちてエリサベツは男の子を産みました。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜びました。神様の恵みと哀れみに感謝をし、不思議な行いを自分たちのことく喜びました。59節をご覧ください。エリサベツが子どもを産んで、八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。当時の習慣にそって、八日目に親族が集まり、子どもの名を付ける儀式を行うことになりました。子どもの名は当然、父の名にちなんで「ザカリヤ」でした。「ザカリヤ家」がたたされることなく、続いたことへの喜びを込めて、彼らは「ザカリヤ」と名付けようとしました。たが、母エリサベツは答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言いだしました。家系の習慣と今までの習わしを無視する発言でした。町の長老はもちろん、家系の主な人々は彼女の発言に憤りを感じました。

人々はザカリヤとエリサベツに子どもができたことを喜んでいました。また、男の子が生まれたときに、父と母以上に喜びました。それと同時に、彼らはその子をザカリヤ家の一員として、彼らの仲間の一員として数え始めました。しかし、エリサベツは生まれた子どもをザカリヤ家の一員、あるいは自分の子どもとしてではなく、神様のものと定めていました。神様が与えてくださった名前、ヨハネ、と名付けようとしたのは、その意味が有りました。ザカリヤ家の一員、彼らの仲間の一人として数えようとする親族と近所の人々と、神様の子どもとして数えようとするエリサベツの意見の食い違いを解消することができませんでした。お互いに譲る気がないからでした。

62節をご覧ください。そこで、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書きました。"His name is John." MSN.Caleb家は王朝時代は王家の子孫として、今もその家柄を大事にする地域の方です。その家系にはしっかりした名前のつけ方が有り、その名前をみるだけで、何々王の何代目の子孫だ、というのがわかるのです。その家系にCalebという名はありません。しかし、MSN.Calebは子どもが生まれたとき、その子が王朝時代の誇りある王家の子孫より、神様から授かった名前をつけました。"His name is Caleb." これはカレブ君が家系のこどもではなく、神様の子どもであることへの宣言のようなものです。

同じように、ザカリヤ家の人々はザカリヤとエリサベツの子どもの名前のつけ方にみな驚きました。ルカはその後の不思議な神様の働きを次のように記録しています。64節をご覧ください。「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」口が解けました。ものが言えなくなったザカリヤの口が解け、神をほめ称えるようになりました。自己表現ができなかったザカリヤが、自己表現どころか、その口を持って神をほめた讃える口に変わりました。近所の人々はその姿にみな恐れおののきました。なぜなら、神様の臨在を感じ取ったからでした。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行きました。聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言いだしました。なぜでしょうか。66節の後半部はその理由について、次のように記録しています。「主の御手が彼とともにあったからである。」主の御手が生まれたヨハネとともにあったとき、ヨハネは神の御業に仕えるものとして成長しました。主に御手が私たちとともにするとき、その人生はいったいどうなっていくのか、その先が見えません。ただ、私たちは口を開けて驚くばかりです。

私は小さい頃から心身ともに虚弱で、うちの両親は弟から襲いかかることさえ警戒していました。食べることも、ままならぬ、高校を卒業するまで、何一つ目立つことのない人でした。大学入学後も、はっきりした道が定まらず、うろうろするばかりでした。全家の子どもとして生まれ、田舎に行くと、誰々の何代目の長子なんだ、と言われながら、私は常に絶望感と劣等感に苛まれていました。大学の同級生で今は年間売り上げがウン百億といわれる巨富となった友人が長崎に来て、「お前は昔、毎日、基礎英語の参考書を持ってヘトヘトしていたね」と言っていました。UBFで聖書勉強をはじめて、勇気出して「この私でも、神のものとなれば、大学の先生になれることを信じる」と、信仰告白したときにも、UBFの人々は笑い飛ばしました。あまりにも私の姿が惨めだったからでした。しかし、私が聖書勉強して、神様から「その名はダビデ」と名付けられてから、主の御手が私とともにしました。そのときから私の人生の日々は毎日が新しく、変わっていきました。今に至るまで、神様の御手が関与してないものが有りません。この私には最近、新たに成長したい祈りの課題を持っています。それは人々と真実で人格的な対話ができる人として、成長することです。人々の真の牧者になれることです。子どもたちの牧者、学生たちの牧者、周りの人々の牧者、必要とされる人々の牧者になれることです。主の御手がともにしている、この私を、きっと、牧者として成長させてくださることを信じます。ザカリヤとエリサベツが人生の祈りの課題を持って祈り続けたように、私がこれから、日本の長崎の牧者として成長することを、祈り続け、その実を結び取るものとなりますように祈ります。

I.救いの角、日の出(67-80)

さて、口が開いたザカリヤは聖零に満たされて、預言をしました。その預言の内容が何でしょうか。68-69節の御言葉をご覧ください。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」救いの角を立てられたことを、預言しています。救いの角とは何を意味するものでしょうか。救いは「われらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである」と71節は補足しています。角はそのための武器であり、誇りであり、自慢です。われらの敵からの救いをもたらす武器、私たちを憎むものの手からの救いの完璧な軍装です。

角は私たちの敵から私たちを守り、私たちを憎むものを倒す強烈な力が有ります。また、この角は武器としてだけでなく、栄光であり誇りです。角を持つだけで、敵は逃げ去ります。角が有るだけで、警戒されます。ザカリヤはその角、救いの角を、しもべダビデの家に立てられたのだと預言しています。

また、72-75節をご覧ください。「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」とあります。ここで言う、アブラハムに誓われた誓いとは何でしょうか。アブラハムとの契約は創世記12章1-2節に現れます。その内容は、「あなたは祝福となる」にまとめられます。アブラハムとその子孫を、祝福とする、契約です。「祝福となる」とは英語では、You will be a blessing、となっています。ここで、blessingはへブル語では、バラク(barak)といい、物質的、精神的な神様からの祝福を意味します。神様はアブラハムとその子孫を、祝福そのものにされると約束されたのです。祝福、という単語はアブラハムとその家系から示す、ことを約束されたのです。神様の祝福のモデルを、アブラハムとその子孫に示すと、約束されたのです。それが神様が与えられたアブラハムとその子孫への契約だったのです。それでは、その契約を覚えたのは何を意味しますか。それはその契約とおり、アブラハムとその子孫から祝福を見せつけたことを意味します。アブラハムとその子孫を、物質的な祝福、精神的な安定と喜び、はもちろん、イエス・キリストによる救いを成し遂げられたことを意味します。

76-79節の御言葉をご覧ください。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」ザカリヤはイエスキリストをさして、日の出、として表現しています。日の出は「力ある強烈なものとして、軟弱さを十分に補える方」を意味します。日の出はイエス・キリストをさします。日の出は救いの角とともに、いと高き所から我々を訪れ、暗黒と死の陰に座るものたちを照らします。日の出が照らすとき、私たちを虜にしているすべての勢力は解けてしまいます。イエスキリストが私たちの心に光を照らすとき、救いの角の力を発揮するとき、その人生は祝福となります。その足は平和の道にたどり着きます。ザカリヤはイエスキリストを指し、救いの角、日の出として表現しています。

結論として、歴史家であり、お医者さんであった「ルカ」が伝えたイエスキリストは、「日の出」であり、「救いの角」です。同じく、私たち信者に取ってイエスキリストは、救いの角であり、日の出として今のなお、関わっています。このかたのお生まれは、暗黒と暗闇の勢力に虜になっているすべての人々への光であり、喜びの知らせです。今度のクリスマスが、皆様に取って救いの角に出会い、日の出とてあう奇跡的な、歴史的なクリスマスになりますよう、祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23