Counter: 849, today: 1, yesterday: 0

2009年クリスマス聖書勉強、その1 --> 問題紙

私たちの間に住まわれたイエス様

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:ヨハネの福音書、1:1-18
要 節:ヨハネの福音書、1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

新約聖書には4つの福音書があります。その中で、イエス様の誕生について詳しく記録したのはマタイの福音書とルカの福音書のみです。私達が良く知っているマリヤとヨセフの話、東方の博士の話、馬小屋でお生まれになったイエス様の話は、ヨハネの福音書には記録されていません。ヨハネはイエス様の誕生の重要性をあまり認識しなかったのでしょうか。いいえ。マタイとルカがイエス様の誕生を事実的な観点から記録したとすれば、ヨハネは、イエス様の誕生が私達に教える意味について良く描写しています。今日の御言葉を通して私達がイエス様はどんな方であるか深く考え、クリスマスの意味を悟ることができますように祈ります。

1節をご覧ください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」「初めに、ことばがあった。」この御言葉は創世記1:1節の御言葉「初めに、神が天と地を創造した」を思い出させます。しかし創世紀1:1の「初めに」は時間の最初、この実世界の始まりを意味していますが、ヨハネの福音書1:1節の「初めに」は、時間が始まる以前、つまりあらゆる時間と空間を超えた永遠の初めを意味します。この宇宙が生まれる前にすでに「ことば」があったということです。ここで、ことばは何を意味するのでしょうか。

ことばはギリシヤ語で「ロゴス」といいます。ギリシヤ人は、初めに万物を存在させて治める「理性的な原理」があったと考えていました。ことばはイエスキリストを指します。「ことばは神であった。」というのはイエス様が神様としてのすべての性質を持っておられることを意味します。イエス様の誕生は、創造主である神様がご自分を人間の形として人類に啓示されたことになります。クリスマスはイエス様の誕生を記念する日です。ですから、クリスマスの意味を知るためには、イエス様がどんな方であるかを知らなければなりません。

3節をご覧ください。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この御言葉はイエス様が創造主であることを言ってくれます。創世記1章を見ると神様は言葉によって天地万物を造られました。神様が「光よ。あれ。」とおおせられると光ができました。万物は神様の御言葉であるイエス様によって造られました。

人間は車を作り、空を飛ぶ飛行機も作れます。スーパーコンピューターも作れます。このように人間はすばらしい能力を持っています。ところが、この人間はだれが造りましたか。美しいバラの花はだれが造りましたか。広くて綺麗な海と空はだれが造りましたか。この巨大な宇宙はだれが造りましたか。聖書はこれらのすべてのものが、この方、つまりことばであるイエス様によらずにできたものは一つもないと断言しています。人間がいくらすばらしいものを作ったとしても、それは創造とは言いません。すでにあるもの、ある材料をもって作ったからです。しかし、神様は無から有を造られる創造主です。人は、綺麗な花や景色を見ると、「綺麗」と叫びます。しかし、私達はそれにとどまらず、それをお造りになった神様を悟り、賛美すべきです。

今から数十年前にアメリカで起こったことですが、ある人が車に乗って走る途中、車が故障しました。周りには助けを求めるサービスセンターもなく、日が暮れるところでした。今のように携帯電話が普及していない時代だったので、しがたがなく自分で修理しようとボンネットを開けました。しかし、あれこれ部品を触ってみても、原因が見つからず、エンジンを掛けることができませんでした。その時、通りかかっていた一台の車が止まりました。そして、その車から年配の人が降りて、近づいてきました。彼は言いました。「故障ですか。少し見させてもらえますか」自分にもできなかったことを、この年配の人にできるはずがないと疑いながらも、車の主人はしがたがなくお願いしました。すると、彼はわずか30秒で車を直し、エンジンを掛けてくれました。車の主人はびっくりして言いました。Who are you? こんなに車に詳しいとは、一体あなたはだれですか。すると、彼は言いました。「I am Henry Ford.」その一言を残して、彼はその場を離れました。彼は、あの有名なフォード自動車を創立したヘンリーフォードさんだったのです。自分で設計して作った車だったので、その車に関してはだれよりも詳しかったのです。

このように、私達の人生はイエス様が計画し創造されたから、だれよりも私達のことをよく知っておられます。どこが故障しているのか。どこに問題の原因があるのか。どうすれば直すことができるのか。誰よりも正確に判断することができます。ですから、私達は自分の人生に問題が発生したとき、心が満たされないとき、イエス様に頼むべきです。イエス様の助けを求めて祈るべきです。イエス様の力と知恵を借りるべきです。

4節をご覧ください。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」この御言葉はほんとうに驚くべき御言葉です。この御言葉はイエス様がいのちの源であり、いのちの主であることを言ってくれます。いのちはほんとうに神秘的なものです。春になると枯れ木のように見える木の枝から新芽が生え、美しい花が咲きます。黒っぽい小さな種からおいししあらゆる野菜ができます。どのようにしてこのように芽生え、花が咲き、野菜になるのでしょうか。それはその木に、その種に、いのちが秘められているからです。最初の人間、アダムは神様から命の息が吹き込まれ、Living being となりました。それによって、私達は考え、働き、話し、愛し合うことができるようになったのです。初めにイエス様は人に命を与え、この世に来られてからもLife giving spiritの人生を送られました。

命の根源はイエス様にあります。自分の命も親のいのちも子供のいのちもすべてイエス様のものです。ですから私達はいのちをむだにしてはいけません。私達は尊いいのちをよく管理して神様の栄光のために実を結ぶ使命があります。また、イエス様の中にある命とは、私達が現在持っているいのち以上の意味があります。私達はこの世で永遠に生きることはできません。それが50年後になるか、明日になるかは分かりません。しかし、イエス様は私達を永遠のいのちへ導いてくださいます。それは罪あるこの世でのただの長生きではなく、罪のない神の国で希望と喜びに満ちた新しい命が保障されることを意味します。イエス様はこのいのちを私達へのプレゼントとしてもって来られました。クリスマスは、サンタクロスが子供たちにプレゼントを配るだけの意味をもつ日ではありません。恋人同士でロマンチックな夜を過ごす日でもありません。クリスマスは、永遠の命を持ってこられたイエス様の誕生を記念する日です。

4b、5節をご覧ください。「このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」過去私達はやみの中をさまよっていました。みなさん。夜中、停電するとどうなりますか。真っ暗になります。何も見えないので、方向感覚を失い、どこに進むべきかがわかりません。闇の中にいる人間は、自分がどこからこの世に来たか、またどこへ行くべきかを知りません。人生の真の意味と目的を知らず、運命的な価値観を持って生きるしかありません。神様はこのような私達をあわれみ、やみの中から、ご自分の驚くべき光の世界に招いて下さいました。人々には光が必要です。いのちを与え、希望を与える光が必要です。イエス様はヨハネ8:12で言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」私達が世の光であるイエス様に従う時、いのちの光を持つようになります。その時、人生の虚しさ、無気力、絶望が消え去り、命と希望に満たされた人生を送ることができます。

この言葉は私の人生を変えた御言葉です。私は虚しさ、無気力、絶望のやみの中を歩んでいたものでした。父の病気と死、そして周りの期待についていけない自分の情けない姿に苦しみ、食べても飲んでも楽しみがありませんでした。大学生になったものの、これから自分の人生はどうなるのだろう。生きる意味、人生の目的はどこにあるのだろうという自らの質問に答えが見つからず、充実なキャンパスライフを送ることができませんでした。

このような闇から私を救ったのはいのちの言葉でした。私は聖書勉強を通して、初めて自分の存在の意味と目的、この宇宙の起源や自分がやるべきことをはっきりと知ることができました。停電の後、電気が回復したように、私の心に光が訪れました。その光によって、虚しさ、無気力、絶望のやみが完全に私の心から消え去りました。その光によって、死んだものと同様だった私に新しいビジョンと命が与えられました。命の光であるイエス様を賛美します。私が、神の国へ入るまで、この恵みを忘れることなく、やみの中にいる人々に命の光を伝えることができますように祈ります。

6~9節はバプテスマのヨハネに関する内容です。当時、預言者であったバプテスマのヨハネはキリストかもしれないと思われるほど人々の関心が集まっていました。しかし、著者ヨハネは、彼は光についてあかしするためであり、すべての人を照らすまことの光とはイエス・キリストであると教えています。

10、11節をご覧下さい。まことの光が来た時、人々の反応はどうでしたか。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」世の人々は、自分を造った造り主が来られたとき、父として受け入れ、拝むべきでした。しかし、この世の人々はキリストがこの世に来られた時、キリストを認めることができませんでした。世の中で一番の悲劇は、子供が自分を生んでくれた親を親として受け入れず、親の愛を拒んでわがままに生きることです。最近ニュースに出ている市橋容疑者は、殺人容疑から整形手術を繰り返しながら逃亡生活中に逮捕されました。彼の父と母は、それぞれ外科医と歯科医で、裕福な家庭で彼自身、勉強もスポーツも得意な優秀な人でした。彼は逮捕後、食事も拒み、親に頼るつもりはない、親に連絡して欲しくないとはっきり言っていました。その背景に何があったのか分かりませんが、親の立場からみると本当に悲しいことです。

さて、なぜ人々は造り主であるキリストを認められなかったのでしょうか。それは、罪を犯した人間が光に出ることを恐れていたからです。やみの中に光が照らされるとどうなりますか。すべてが明らかになります。一つも隠すことができません。人々は自分たちの罪が明るみに出されることを恐れイエス様を拒みました。神様として受け入れるところか、捕まって十字架に掛け、殺してしまいました。しかし、その中で、イエス様を受け入れた人がいました。彼らが受ける特権はなんですか。

12節をご覧下さい。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」イエス・キリストを信じる人は、神の子供とされる特権が与えられます。

14節をご一緒に読んでみましょう。「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」イエス様は本来、天と地を創造された神様です。神様は人間の目で確認することができません。しかし、神様は私達の間に住まわれようとされました。それは、私達の霊的な目が罪によって閉ざされ、本当の神様、私達が拝むべき主を見ることができず、世の中の快楽や虚しいことに捕らわれていたからでした。神様は、迷子になっている子供を捜す親のように、罪のため神様を離れた人間の間にその姿を現そうとされたのです。それでは、神様はどのような格好で、この世に来られましたか。レーザービームのような形で来られましたか。スペースシャトルに乗って、空からおりて来られましたか。14節の前半部をもう一度読んでみましょう。「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。」英語の聖書には、「The Word became flesh and lived for a while among us.」とあります。目に見えないスピリットである神様がfleshになって、この世に来られたのです。これは、創造主が被造物になってこられたことを意味します。

それでは、人間の姿をとって来られたイエス様から何を学ぶことができますか。イエス様が人間の姿に低くなって来られたのは、私達の間に住まわれるためでした。幼稚園の先生が子供たちの世話をするためには、子供のようにならなければなりません。子供の目線で、子供が好きなこと、子供ができること、子供が親しむ言葉遣いなどを良く研究して彼らのように行動しないといけません。もし、幼稚園の先生が自衛隊の教官のような教え方を取ると、子供たちはみな泣いて逃げるでしょう。

2003年のイラク戦争の時、アメリカの前大統領であったブッシュさんは、収穫感謝祭の夜を家族と共に過ごせず、戦場で戦っている兵士たちと一緒に過ごした話は有名です。当時の状況からして、大統領の専用機かイラクのバグダッド空港に着陸するのは、とても危険なものでした。しかも、今までアメリカの大統領のイラク訪問は一度もありませんでした。しかし、大統領は前もって、感謝祭は家族と共に過ごすことを公に知らせ、いったん自宅に戻り、そこから機長を含め数人だけの内緒で戦場に向かいました。ミサイル攻撃の危険があるにも関わらす戦場に向かったのは、軍最高司令官として劇的な現地訪問を行なうことで、兵士の士気を盛り上げるためでした。その願い通りに大統領に会った兵士たちは感動し、大きな力を得ることができました。どうして兵士たちは大統領の訪問に感動したのでしょうか。それは大統領としての権力よりも、戦場で苦労している兵士たちの立場になって、命賭けで自分たちの間に飛んできたからです。

イエス様は創造主として栄光と誉れと賛美を受けるにふさわしい方です。しかし、イエス様はそのすべての栄光と誉れと神の御国までも捨てられました。イエス様がこの世に来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためでした(マルコ10:45)。ブッシュ前大統領は、兵士たちの食事をして数時間後、再び専用機に乗ってアメリカに戻り家族と幸せな時間を過ごしましたが、イエス様は33年間この世で人との間に住まわれ、ついに、人類の救いのために、十字架に掛けられ、死なれました。イエス様は、私達罪人が受けなければならない罪の裁きを、身代わりに受けられました。私達はこのイエス様を通して神様を見ることができました。イエス様の罪人に向けた牧者心情と哀れみを通して、神様の愛と情け深さを見ることができました。聖書を見ると、イエス様に出会った人はみな、その中にある神様の愛と力を悟り、人生が変わりました。これは現在進行形で、今も世界中で、イエス様に出会った人々の感動と喜びの物語は続いています。私達がイエス様を通して神様を見ることができたのは、どれだけ大きな恵みですか。

16節をご覧下さい。「私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」この世で、人生の意味も目的も知らず、運命的に生きるしかなかった私達が、イエス様の愛によって、命と光の人生を送ることになったのは大きな恵みです。ヨハネはイエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたと語っています。私達の間に住まわれたイエス様の恵みを感謝賛美いたします。

結論、人となってこの世に来られたイエス様は恵みとまことに満ちておられました。このキリストの恵みとまことがクリスマスを迎える私達の心の中に満ちあふれるように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23